ガイドブック千夜一夜

ガイドブック千夜一夜その3

今回より「ガイドブックを考える」から改題しました。

さて、West Asia on a Shoestringでは、読者が「カトマンドゥからイスタンブルまでを陸路で横断する」ことが念頭に置かれていた。旅行のルートに従って情報をまとめたガイドブックといえよう。LP社のガイドブックは、その原点であるAcross Asia on the Cheapからつながるこのようなタイトル-「on a Shoestring」の付されるもの-にもっとも特徴が現れている。

しかし、LP社のガイドブックは国や地域ごとに情報をまとめたシリーズに拡充されていった。「旅行の道具」を下地として「地域を知るための道具」の方向に進んでいったと言えるだろう。今回もまた古いストックから1冊を取り出してみる。


ラサの中心、ジョカン寺前の広場

このタイトルの対象としているチベットは当時外国人に解放されたばかりであった。1980年代後半から1990年代初頭にかけては冷戦構造の崩壊や中国の開放政策などにより、旅行の目的地に対する自由度が格段に高まった時代と言えよう。

ベトナムやカンボジアといったインドシナ半島、中央アジアの各国、統一されたイエメンなど、この時期に現実的な目的地となった地域は多く、旅行の情報を扱う文献もその対象を大きく広げた。中でもチベットは、門戸が閉ざされてしまう以前の情報収集がほとんど行われていなかったという点で極めて特異であったと考えられる。


Snowlands Hotelの中庭

ツアー客の受け入れに続き、ようやく個人旅行者を受け入れるようになった現地での取材がこの本の基礎になっている。直接著者に話を聞くことはできなかったが、1991年にチベットを訪れた折り、ラサのSnowlands Hotelの従業員の方々から取材時の様子を伺うことができた。この宿-「ホテル」というイメージにはほど遠い-をベースにしたラサ周辺だけでも、2ヶ月間にわたり取材は続けられた。

さて、本書の構成はLP社のガイドブックの中ではかなり変わった部類に入ると言えそうだ。なによりの特徴は、地域ごとの情報を記載したページが126ページと、全体(256ページ)の半分に満たないことだ。

このことは外国人旅行者への解放からまだ日が浅かったことによる、「フロンティア性」を示すものといえよう。情勢の変化も激しく、長期間安定的に活用可能な情報を提供するのは難しい状況であった。このサイトの制作者も1990年には交通手段の確保や許可証の問題から入域を断念している。

また、いかに長期の取材を行ったと言っても詳細な情報の蓄積には不十分な面もあったことは否めない。これらの要因ゆえ、地域ごとの情報を収録するよりも「応用の利く」全般的な情報を充実させるという方針は妥当なものといえる。

ところで、West Asia on a Shoestringにはかなわない(?)ものの、相変わらず体裁は貧相である。しかし、劇的に改善された面もある。本文はモノクロ印刷だが、専用のページを用意して充実したカラー写真が収録されていることだ。これらの写真はほぼすべて2人の著者によるものである点も特筆すべきであろう(ダライ・ラマの真影という極めて特殊なものだけが例外である)。写真以外の図版もWest Asia on a Shoestringに比べると多用されている。

一方、地域の特性からアルファベットも独自であることに加え、旅行の技術的な面では漢字を扱うことが避けられない。制作過程へのコンピュータ導入が進んでいなかった当時、このことは中国を対象とするガイドブックとならんで、欧米のガイドブック制作者にとって大きな困難を伴う課題であった。

本書では手書きの原稿や「切り抜き」と思われる原稿をもとに中国語やチベット語を記載した箇所が多数見られる。「見てくれ」は悪いが、著者独自の写真や図版と相まって紙面からは「手作り」の感覚が伝わってくる。

裏表紙の記述も具体的なコピーを表に出したWest Asia on a Shoestringとは異なり、情緒的な雰囲気を漂わせている。

2003.6.5