WWW川流れ

デザイナーはコンテンツ

文章であれ写真であれ、コンテンツ作りにはもともと大いに関心をもっていた筆者だが、デザインにはまるで興味がなかった。しかし、実際にWebサイトを開いて運用してみると、これらは一体であり切り離せないことが分かってきた。

デザインと言っても「見た目」はその中心にない。本論におけるデザインの意味は、「見た目」を中心に捉えられがちな日本語化された「デザイン」ではなく、「設計」という要素に重心をおいた“design”だ。

  1. デザインの目的
  2. デザインのケース・スタディ
  3. 閲覧者の動線と論理構成

デザインの目的

手堅い「タレ流し型コンテンツ」を提供するWebサイトにおいては、公開しているページすべてを見せるということがデザインの目指すべき到達点であろう。「すべて」は難しいかもしれないが、できる限り内容の多くを見せるという方向性ははっきりしている。

文章を中心としたコンテンツに関しては、全文を読ませ設定した問題意識から争点、結論とつながる論理構成を納得させるのが目標だ。文章に含まれるデータとしてのセンテンスだけを「つまみ食い」して帰られてしまっては元も子もない。そればかりか、全体の論理が理解されていないことにより思わぬ誤解を生じさせる危険もある。

写真やイラストなどの画像や動画がコンテンツの場合も、アプローチはさほど変わらない。情報として当初目当てにされていた部分だけではなく、より多くの作品を閲覧させコンテンツ全体の世界観を示したいのが制作者の心情というものだ。そして、何回も閲覧してしまうコンテンツにはそれ相応の世界観がある。まとまった論理構成は文章以外のコンテンツにも求められる。しかし筆者がテキスト以外のコンテンツを作成した経験は少ない。それゆえ議論の対象を文章に絞る。

手書きHTMLのススメ」でも記したように、モニタの画面で文章を読むのは大儀だ。よほど読みたいという意欲を刺激するものでなければ、たくさんのページを開いてもらうことは難しい。しかし、魅力溢れる文章を簡単に量産できたら世話はない。

だからこそ「読みやすさの追求」は成果を上げやすい分野であり、デザインの最優先項目として設定する値打ちがある。「読みやすいデザイン」のためには技術的な工夫により実現できる、いくつかの効果的な手法もある。しかし、この部分は回を改めて記述することとし、今回はコンテンツとデザインの関係について概略を述べる。

まさか「にぎり寿司」をどんぶりに盛りつけるセンスの持ち主はいないだろう。いたとしてもそれはエキセントリックな「芸術家」だから、まねをしてもうまくゆく可能性は少ない。内容(コンテンツ)によって器(デザイン)は自ずと決まってくる。適切なデザインを絞り込んでゆくと、無難な選択肢はそれほど多く残らない。

選択肢が少ない作業には創造性を発揮する余地も少ないという印象を抱きがちである。しかし実際には、制約となる条件が厳しいほどゲームを攻略するような面白さがある

どのような器がふさわしいのかを選択する際に求められるのは、書籍や雑誌における「編集者」に相当する能力であろう。器の選択が適切ならば、少々コンテンツの内容が悪くても、巻き返しを図る余地が生まれる。しかしその選択を行う際には、コンテンツやその関連分野に関する理解が必要になる。

裏返しに考えれば、デザインの悪いサイトの制作者は自ら制作したコンテンツを理解できていないということだ。WWWにおいては大きな資源を投じているはずの法人サイトの魅力が「片手間」で運営されている個人サイトに劣る、ということが良くあるが、原因はこの部分にあるとみている。

つまり、法人サイトの作成は外注されることが多い。しかし外注先でデザインに携わる者は、コンテンツに対する理解度という点で、コンテンツの制作からデザインまでを一貫して行っている個人サイトにかなわない。メディアとしての歴史が古い出版物ならば、さまざまな分野に専門の出版社があり、編集者がいる。しかし、そこまで専門分化が進むほどWWWの歴史は長くない。

コンテンツに関する知識がない「デザイナー」に作成を任せるのは、料理の盛りつけを陶芸家に依頼するようなものである。陶芸家に頼めばなんでも陶器に入れたがるわけで、カウンタのまな板から手づかみで寿司をつまむ楽しみは消されてしまう。内容証明郵便が届きそうなので例示はしないが、「頓珍漢」なデザインのWebサイトを公開している法人は、この手の間違いを犯しているようだ。

さて、デザインにはさまざまな要素が含まれる。これらの中には閲覧者の行動に少なからぬ影響を及ぼすものがあることは、弊サイトのログを解析した結果からも推測できている。が、どの要素がいかなる影響を持つのかについては多くの事項を検討する必要がある。「コンテンツを小出しにして」たびたびお越し願おうと企んでいる感がなくもないが、今後の展開の中で少しずつ記述をしてゆく考えだ。

デザインのケース・スタディ

デザインの話は具体的な例を示さないと分かりにくい。しかし、よそ様のWebサイトを例示して批評をするのは忍びない。そして、WWWコンテンツのデザインには書籍など印刷媒体とはもっとも異なる、デザインを頻繁に変更できるという特性があり、例示対象がいつまでも事例としてふさわしい状態ではいてくれない。この節では気兼ねなく引き合いに出せる自前のコンテンツ「とるこのととと」を事例とする。

このコンテンツの特徴は、ひとえに「字数の多さ」である。本文16万字強、サブコンテンツも含めれば20万字に迫る字数であり、原稿用紙に展開したときには段落の遷移に伴う空白の分、一段と嵩が増す。学術用途をのぞけば、ずば抜けて長い文章を提供しているコンテンツと言えるだろう。

「旅行もの」という事情から、第1章、第2章、第3章という具合に論理構成を順を追って示す方法では十分な役割を果たせない。つまりこういうことだ。「キュタフヤ」という地域別のページを閲覧している読者が次に開くのは、メニューの前後にある「ブルサ」や「ギョネン」のページであるとは限らない。むしろ、交通機関の利用方法を記述した「オトビュスをきわめる」であったり、食べ物の解説をした「ケバプチュ」であったりするわけで、制作者としても逐次項目を追わせるということは意図していない。

それゆえ、ほとんどのページでコンテンツ全体を一覧させる冗長なナビゲーションを「強引に」表示させている。もし仮にナビゲーションを表示せず、個別のページを読み切るごとに「次へ」のボタンを押させる方式や、いちいちインデックスページへ戻らせる方式だったとしたら、恐ろしく使い勝手の悪いデザインになってしまう。ナビゲーションをコンパクトに表示するために便利なJavaScriptを利用した「折り畳みメニュー」方式も、このコンテンツではクリックの回数を増やす可能性が高く、適切ではない。

このコンテンツの場合、鬱陶しいナビゲーションは必要不可欠とは言わないまでも利便性を向上させるうえで非常に効果的なものだ。しかし、他の種類のコンテンツにも同様のデザインが適切であるとは限らない。あくまでもコンテンツによってデザインが決まっているのだ。

閲覧者の動線と論理構成

ケース・スタディでの最重要項目は、「デザインを決定するにあたって閲覧者がどのようにサイト内のページを巡回するのかを想定しておく必要がある」ということだ。

ここで話は「手書きHTMLのススメ」に戻る。つまり、論理構成を明確にできていなければ、閲覧者の動線を想定することも難しい。ファイルの見え方にこだわるよりも論理構成に注力した方が無駄なく作業を進められるわけだ。

時系列の構成にすんなり収まるコンテンツであれば、比較的苦労は少ない。時系列を昇順に辿った場合と降順に辿った場合、そして時系列の途中から閲覧を開始した場合を考慮しておけば、ほとんどの用は充足できよう。

しかし、素直に時系列に整理できるコンテンツはむしろ例外だ。コンテンツがひとたび空間的な広がりを持ちはじめると、とたんに厄介な話になってくる。データ整理における「成人病とのたたかい」になかなか終わりは来ない。

論理構成からデザインを決定する作業は奥深い。そして、いつまでも試行錯誤を余儀なくされる「終わりなきたたかい」でもある。

2003.11.7