WWW川流れ

タレ流し型コンテンツのススメ

  1. わり算
  2. ケース・スタディ
  3. 「悪い」コンテンツ
  4. 「良い」コンテンツ
  5. 「タレ流し型コンテンツ」という結論

多数のコンテンツが乱立している弊サイトでは、「どうしたらこうもボコボコとコンテンツを編み出せるのか?」という質問をしばしばお受けする。しかし、お答えしている内容は単純だ。「手間のかかることはやらない」というひとことに尽きる。

わり算

大企業のサイトでもない限り、コンテンツ制作に費やせる資源は限られている。個人サイトの場合には、この資源の多くを労力と時間が占めることになろう。時間や労力も有限であり、コンテンツ作りにかける資源をそうそう増やすわけにはゆかない。

一方、必ずしもすべてのタイプのコンテンツに当てはまるわけではないが、私は制作したコンテンツはできるかぎり活用されるべきだ、という考えをしている。平たくいえば閲覧されることだ。誰にも閲覧されないようでは公開する意味がなく、電力と労力の無駄遣いに終わる。そしてなにより、閲覧されないコンテンツは制作者の気力を殺ぎ、精神に悪影響を及ぼす。

これらの視点を合わせて考えると、投じた資源の割に活用される度合いが高いものが「良い」コンテンツになる。ここで問題になるのは、活用されているかどうかをどのように測定するか、ということだ。

もっとも分かりやすい要素は「アクセス数」である。アクセス数に着目すると「閲覧者数÷投入資源」の値が大きければ大きいほど良い、という指標が導き出せる。

しかし、単純なアクセス数(≒閲覧者の数)は、コンテンツの活用度を測定する上で必ずしも有意ではない。ひとりの訪問者がどれだけじっくりと閲覧していったか、あるいは頻繁に閲覧しているか、という要素にも同等の意味がある。

売れはするが「積ん読」にされる書籍のようではよろしくないということだ。出版物の場合には販売された部数ぐらいしか分からないが、WWWコンテンツの場合にはどれだけのページが閲覧されたのかということも測定できてしまう。書籍に置き換えると、何回ページが開かれたか、ということだ。

この視点から得られるのは、「閲覧されたページ数÷投入資源」の値が大きければ大きいほど良い、という指標である。見方を変えて得られる「閲覧されたページ数÷アクセス数」の値は大きければ大きいほど良い、という指標も参考になる。

量的な多寡ではなく、わり算をして投資効果を算出しコンテンツを評価しようというところが、これらの指標のポイントである。わり算の解に満足がゆけば、結果的に長続きして「成功したコンテンツ」となる可能性も高まるであろうという仮定だ。

ケース・スタディ

これらの指標をもとに弊サイトの各コンテンツについて「論功行賞」を行ってみる。もっとも高得点と考えられるのは、「areastudy.net」である。中心となる素材「国旗」は頻繁に変わるものではないので、メインテナンス・コストはほとんどゼロだ。「ガイドブックのガイドブック」も大量のデータを扱っているわりに頻繁な更新は発生しないから点数は高い。

読み切りの紀行文である「ハンガリー・スロヴァキア・チェコ」および「旅・ひと・ことば」は、閲覧者数が限りなく不合格ラインに近い。しかし、訪問者の滞在時間は長く、投下した資源も少ない。指標に当てはめたときの「総合点」は悪くない。

トルコのWebサイトリンク集と休眠状態のトルコ料理普及協会は対照的なコンテンツだ。前者はツールとして利用している「常連」ユーザが多いことがアクセスログから推察できている。その一方、後者はトルコ料理の世界への入り口だけ提供していて、訪問は一度きり、いわば「瞬間芸」だ。両者は正反対の性格であり、前者は閲覧されたページ数(というよりは回数である)、後者は閲覧者数で得点を稼いでいる。投下した資源と活用される度合いを秤にかけてみて、「赤字」にはなっていない。

さて、弊サイトの看板である「とるこのととと」は、非常に点数の悪い「不採算コンテンツ」だ。閲覧者数、閲覧ページ数の値は大きいものの、投じた資源の大きさが足を引っ張っていて、過大な投資の回収に手間取る重厚長大産業のようだ。もっとも、これが成り立ってしまい一定の評価をいただけることにWWWの面白さ、奥の深さもある。「ばかばかしくて非効率」も一概に否定できない。

「悪い」コンテンツ

「ばかばかしくて非効率」が当たる可能性はある。しかしどうみても「正攻法」とは言えない。もう少し現実的な方法を模索するために、まずは「悪い」コンテンツについて考えてみよう。指標を構成している要素は以下の3つだ。

「投入する資源」を大きくしすぎると、残りの2点で挽回するのが大変になる。個人サイトの場合、資源の多くは制作に要する労力だ。その労力の多くは更新作業の手間が占めることになろう。

しかし、長期間サイト制作から離れねばならない可能性もある。また、休日を利用して一気に文章を書き上げることには個人でも可能性があるが、メインテナンスのため毎日決まった時間を費やすことは、たいていの個人サイトにとってアフォーダブルではない。

つまり、頻繁な更新が必要になるコンテンツは「悪い」ということだ。具体的には「時事ニュースもの」である。このことはケース・スタディでこのコンテンツ「編集前中後記」を飛ばしたゆえんである。弊サイトで試みたほぼ唯一の時事ニュースもの「藪さんと定さん」を含んでいるからだ。争点はここにある。

時事ニュースもの

時事的なニュースを追いかけるタイプのコンテンツは、公開するタイミングさえ合えば閲覧者数という要素について大きな「最大瞬間風速」を発生する。しかし頻繁な更新が求められるから、数字を維持するために必要とされる資源は膨大である。

そして、頻繁な更新によりサイトとしては指標を満足させられる閲覧者数を維持できても、「過ぎ去ったニュース」に関連する記事は滅多に参照されなくなる。ゆえに、コンテンツがライフタイムで獲得する閲覧者数は必ずしも多くならない。「時事ニュースもの」のコンテンツは足が早い「青魚コンテンツ」なのだ。足の早い青魚コンテンツの閲覧者は足が非常に速く、1回の訪問あたりの閲覧ページ数が恐ろしく少ないことも付け加えておこう。閲覧ページ数という要素を増やすことは容易ではない。

ところで、新聞社などメディア各社のサイトは記事の公開期間が限定されていることが多いうえ、記事に対する直接のリンクを歓迎していない*1。これらの事情は「時事ニュースもの」のWWWコンテンツにとって致命的な制約になっている。リンクというWWWの優れた特性を利用して出典を記すことが困難なのである。「青魚コンテンツ」はその材料を供給する海-メディアのサイト-もまた青魚ばかりなのだ。

さて、「時事ニュースもの」の閲覧者数を確保するためには、公開のタイミングを的確にする速報性が求められるという性格がある。しかし、ニュース報道には事実誤認が付き物だ。特に第一報には事実誤認が含まれている可能性が高い。「不用意に食べると腹をこわすネタ」に手を出すことが避けられないという意味でも、時事ニュースもののコンテンツは「青魚」である。

スポーツや芸能関係のコンテンツも「時事ニュースもの」と同様に考えることができよう。ただ、「青魚」であること以上に、知的財産権というルールを無視した競争が目立つ分野である。突然の「内容証明郵便」を受け取りたくないWebマスターには制約が大きくやりにくい。

コミュニケーション型コンテンツ

ところで、このサイトの制作者はWWWをコミュニケーション・ツールとして活用することに多くを期待していない。その根底には「対面コミュニケーションを超えることは永久に不可能である」という認識がある。WWW経由のコミュニケーションに神経を使うぐらいなら、飲みにでも行った方がよほど健康的で充実度が高い。

「会ったこともない相手」と円滑なコミュニケーションを図れるはずはない。対面コミュニケーションとの間には、乗り越えがたい壁がある。WWWは良くてせいぜい「出会い」(この単語には妙な想像をさせられるが)を提供するだけである。コミュニケーション型のコンテンツへの依存度を高めるのは危うい。

個人のWWWコンテンツとしてありがちなのは掲示板であるが、掲示板に関連する問題は絶えない。掲示板に起因するトラブルが「死因」となって、優れたサイトが閉鎖される場面をたびたび目撃してきた。加えて、これまでの判例では管理者が責任を問われるものも出ており、気安く手を出せる状況ではなくなってきている*2

WWWを「性善説」に基づいて利用できた「古き良き時代」(と言っても、ほんの数年前だが)から続くサイトの掲示板は、すでに定着している常連客の協力も得られるから、比較的平穏を保っているようだ。しかし、これから公開しゼロから集客をはじめるサイトが迂闊に手を出すべきではない。

掲示板をはじめとするコミュニケーション型のコンテンツにはついつい手を出したくなる。しかし、コミュニケーション型のコンテンツを成功させるだけの余裕、すなわちいつでも、そしていかなる閲覧者の都合にも合わせられるだけの余裕があるかどうか、という問いに迷いなく頷けることが条件である。条件を満たせる可能性は低いから、「話を聞かない男」に徹した方が気が楽で、長続きする。

コミュニケーションは移ろいやすい。「時事ニュースもの」と同様に、コミュニケーション型のコンテンツは「青魚」なのである。加えて、必ずしも閲覧者に求められているわけではないということを知っていて損はない*3

「良い」コンテンツ

さて、「良い」コンテンツとはどんなものだろうか?そのコンセプトを挙げてみよう。

コンセプトのひとつ目は、「新しいものを無闇に追いかけない」ということである。ひとたびWebサイトを開設してしまうと、更新を続けねばならないという「強迫観念」に怯えはじめるWebマスターは少なくないようだ。しかしながら、更新頻度と閲覧者数は必ずしも相関しない、というのが弊サイトの運営から得た経験則である。

更新をやめると「常連客」とみられるビジターが去ってゆくのは確かで、このことに寂しさを感じないわけではない。しかし、弊サイトの中心である「旅行もの」は、検索エンジンを経由した「一見の」ビジターが大勢を占めている。更新の頻度を上げなくても閲覧者はやってくる。

ビジターにとっては「初めて閲覧した日が更新日」なのだ。弊サイトで公開しているのは「旅行もの」であるが、更新に依存しないコンテンツ作り、というコンセプトは他の分野にも応用可能であろう。

資料性の高い「データベース型」のコンテンツも、対象を選びさえすれば手間のかからないコンテンツだ。初期制作にはまとまった資源を要するが、公開してしまえば固定客が増えるのを見守るだけである。

ところで前節では掲示板の話を出したが、同じ「掲示板」を名乗っていても「Yahoo!掲示板」と「2ちゃんねる」はまったく違う方向を向いている。大雑把には前者はコミュニティであり、後者はデータベースである(それゆえ無闇に「質問」をすると叱られる)。Yahoo!掲示板は書き込みされなくなったトピックを平然と消去する一方、2ちゃんねるはいやらしいまでにスレッドの保存にこだわる。

調べものをする際の検索結果に少なからず「2ちゃんねる」の過去ログが含まれていた、という経験は多くの方がされているはずである。検索されることを通じて活用される機会の多寡を考えれば、どちらが効果的なものなのかは論ずるまでもない。

これらの「掲示板」の比較から考えられる2つ目のコンセプトは、公開を継続して将来にわたり永く閲覧可能な状態を保つということである。この目的を実現するコストが印刷媒体に比べて格段に小さいことは、WWWの特性と言える。蔵書スペースも不要であり、大勢が同時に閲覧可能だから保存すべき点数は1点で済む。アクセスはどこからでも可能だから、近所の書店や図書館を探し回る必要もない。「印刷媒体が正常進化したもの」と捉えることもできよう。

これまで行われてきたことの効率を高める分野において、WWWは効果的に機能してくれる。しかし、これまで行われてこなかった新しい分野にはトラブルがつきまとう。WWWはしばしば期待されるほど斬新なメディアではないのだ。

古い書籍でも価値あるものに出会うことがあるのと同様であり、メディアが新しくてもコンテンツに対する考え方は古典的である。安くてうまい(=手軽でアクセスを稼げる)が足の早い青魚ではなく、「干物」や「乾物」を選んでおけば、あとあと手間はかからないというわけだ。「干物」や「乾物」は見映えもよろしくなく劇的な集客はできない。しかし、腐りにくく取り扱いは容易である。

「タレ流し型コンテンツ」という結論

誤解のないよう断っておくが、本論での「良い」コンテンツ、「悪い」コンテンツの基準は冒頭に掲げた指標をもとにした場合のものだ。絶対的な善し悪しとは必ずしも一致しない。それゆえ「良い」「悪い」をカギ括弧でくくっているわけだ。ただ、これらの指標を満たすことがサイトの長寿命化に寄与するという確信はある。

コンテンツを評価する指標として利用されることの多い1日あたりのアクセス数にはさほど意義を感じられない。これは「青魚」を投入すれば容易に増やせる数字だからだ。また、今回は詳細な記述を見送るが、アクセス数(≒閲覧者の数)やその計測に使われる機会の多いカウンタにはさまざまな「トリック」があり、リアリティを表しているとは限らない。

本論に戻ろう。更新に依存せず、長期間公開される「乾物型」コンテンツを「良い」コンテンツのコンセプトとして指摘した。「乾物型」コンテンツは一度作成したら当分そのまま放置できるものだ。「乾物型」コンテンツにおいての情報は、閲覧者が必要なときに「もどして」活用してゆくものであり、制作者に求められるのは余裕のあるときにコンテンツを作り「タレ流す」ことだ。「乾物型コンテンツ=タレ流し型コンテンツ」という結論になる。

それでも「青魚」を食べてしまいそうな向きのために「ダメ」を押しておく。例えば、公開した「乾物型コンテンツ」の閲覧者数が1日あたり10人であったとする。WWW上ではかなり「鄙びている」という評価に甘んじざるを得ないかもしれない。だが、この数字でも年間での閲覧者数は単純に見積もって3650人になる計算だ。

いかがだろう?手間のかかる「青魚」を維持しきれず短期間で閉鎖するよりは、よほど多くの閲覧者を獲得できると考えられないだろうか?無理を承知の比較だが、仮にこの数字を出版物の発行部数と置き換えても、「当たり」ではないが悪くはない数字であると考えられる。なにしろ出版不況にも関わらず、出版点数は漸増傾向にあるから、発行部数の平均値はじり貧だ。

青魚を食わず、ひたすらコンテンツをタレ流すサイトは長生きする。そして、長生きするコンテンツがライフタイムで獲得する閲覧者数は、「最大瞬間風速」の大きい「青魚」に劣らない。長寿命は「成功したコンテンツ」につながる可能性を「青魚を食う」リスク無しに高めてくれる。

今年に入って弊サイトの主要コンテンツ「とるこのととと」に掲示板を利用したコンテンツを設けた。しかし「掲示板」を利用してはいるものの、ねらいは「青魚」のコミュニケーションではなく「乾物」だ。あまりお構いできず恐縮だが、あとあと手間のかからないやり方で掲示板の便利な機能だけを活用していただこうという趣旨である。


2003.10.26